Suzuki Ryoichi

　J.M.W.ターナーがコートのポケットや旅行カバンにときおり忍ばせ持ち歩いたスケッチブックの1冊に、『”Skies”Sketch book』と呼ばれるものがある。ほぼすべてのページに空の様相が素早い筆致の水彩で描写されたこのスケッチブックは、至極個人的なものにすぎなかったが、今ではすべてのページが両面スキャンされ、書物として出版されている。

　流れる雲、上空を吹く風の印象、地平線に残る淡い光、ほとんど”描かれていない”ような水彩の余白のなかに、我々は記憶の中の空のあり様を溶かし込み、彼の肩越しに見返す。

　少なくともわたしにとって、ひとつの特別な装置としてあったこの書物に対して、それ以外の意味を殊更に見出すつもりはない。ただ、あるとき開いたままになっていたページに薄暮の光が差し、彼の描いたちいさな夕陽がその新しい拠り所とした紙の上で、今この瞬間煌々とあるのを目にしたとき、異なる時間がいとも軽々と重なって存在しているのを見たように感じた。別の角度からやってきた空が、紙の空と重なり呼応しているように思えた。

　そして、部屋から覗く狭い空に、手元の書物が再び淡く溶けだして、別の気象をたどるさまを観察したいと考えた。